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徳永信子さんのこと 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 5月 1日(木)08時49分13秒
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            徳永信子さんのこと 




 一昨年K・K君の急逝によせて下記のような追悼の文を書いた。

死に対する哀しみや無常観よりも
私は彼の生きた人生に賛美を送ろう
苦しいことや悲しいことがあったにしろ
見事にここまで生き抜いて来たのだから

この宇宙は生命の無いことが普通なのだから
生命があることが希有なことであるから
存在する或いは存在したということが
奇跡のようなものだから

私達はK・K君と同じ時間に同じ空間に
生きてたことに喜びがあり
彼の一生が長い短いにかかわらず
見事に生命を全うしたことを祝福しよう

 徳永さんとは若い頃は全く知り合うことは無かった。それが同人誌「斜光」への投稿や、
「同人α」の熱心な愛読者として知己を得、その後シネマの会で時々銀嶺でお会いした。
いつもにこにことしたおだやかな人柄だった。、しかし時にはドキッとするような辛辣さ
も持っている鋭い観察眼を秘めた人だった。一度っきりの、そして誰にとって代わること
の出来ない命、それが長かろうが短かろうが「生きた」という事実、そしてその存在価値
は揺らぐことはないと思った。

2009年6月24日 (窓辺にて)

3

 
 

小宮弘敬君のこと 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月14日(月)23時24分5秒
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            小宮弘敬君のこと 





 コンちゃんとは高校のクラスで一緒になったことがあったのか、それともなかったのか
はっきりと覚えてはいない。彼とは中学も違ったから高校になってから知った訳だが、そ
の後短期間のうちにかなり親密に付き合いだしたのは確かである。それは高校卒業三十周
年記念のとき発行された記念誌「青春のあの日」に投稿した私の下記の文章に書いてある
から間違いない。

        梁山泊考                 20組 古賀 和彦
   当時私の部屋は空間・時間を問わず出入りが自由で、水滸伝の面々ほど野心家や豪
   傑ではなりけれど、将来の可能性を信じ、かと言って大した努力もしない連中が常
   に数人屯していて、あたかも梁山泊の如きであった。そこで彼らのその後を、独断
   と偏見をも のともせず記念誌に残そうと思う。
   ○小宮 弘敬〈通称 コンチャン)
    写真の勉強をしていたので、てっきりカメラマンになるかと思っていたら薬九増倍
   の魅力に勝てなかったか? ともあれ兼好法師も言っている様に、物くるる友、薬
   師云々、これからはお世話になります。

 コンちゃんの家は佐賀駅から数分の、表通りから一本入った道に百草園という漢方薬の
店であった。時々店の奥の小川に面した彼の部屋に泊まりにいったものであるが、店に飾
ってあるイモリの黒焼きをみて驚いたり、その他ゴウカイ、ウマビル、アブ、サツマゴキ
ブリ、キョクトウサソリ、マンモスの化石、タツノオトシゴなど、普段では考えられな漢
方薬の世界を覗かせてくれた。
 彼は長男だったからてっきり百草園を継ぐのかと思っていたら、大学の芸術学部の写
真科へ進学した。そのころ私は学生浪人で恵比寿の三帖一間の下宿に住んでいた。たまた
まコンちゃんは、軒を接してひしめく街・私の下宿から望む高台にある高級住宅街の親戚
の家に身を寄せていた。「小宮家は男爵から乞食までいる」などと言ってハハハと笑って
いた。
 それからまたお互いに離ればなれになって暮らしたのだが、帰省の度に百草園の店に座
っているコンちゃんを訪ねた。しかしここ数十年その機会が作れなかったのが今になった
らくやまれる。どこか異国のDNAを引き継いだような彫りの深い顔立ち、温和しくてあ
まり自己主張しない性格は皆から好かれる一方で、損な役割を背負わされることもあった
であろう。
 私の命を託そうと期待していた薬師が先に逝ってしまったのが残念である。捻者、悪者、
嫌われ者は長生きするという諺は本当だろうか。

2014年/4月/13日 (斜光19号)

3

 

小倉厚子さんのこと 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月13日(日)16時13分24秒
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          小倉厚子さんのこと 





 茶道を教えて親子三代、祖母さんとお母さんと彼女の三人家族で、男っ気はなかった。
一方私の周りはと言えば兄そして従兄弟も男ばかりで女っ気はなかった。だから私は姉か
妹がいればもう少し人間関係にゆとりのある付き合いを会得できたかも知れないと今では
思っている。

 幼なじみといえる一人っ子の彼女は男兄弟を、私は女姉妹を望んでいたかも知れないと
推測するのは無理だろうか。いやそんなことにお互いの気持ちの共通点があったかも知れ
ないと思うのはあながち嘘と思えない。昨年銀座で数人で会食したときも、古希を過ぎた
私を捕まえて「かずひこくん」と「君」で呼んでいた。さては私が姉か妹を望んでいたこ
とからすると、彼女の意識は私の姉さんだった訳である。
 私達「梁山泊」と称したグループは山登りやハイキングに連れだってよく出かけた。そ
んな仲間であったので時々休みの日はK君と彼女の家に遊びに行っていた。私の家から歩
いて十分も掛からない距離で、大通りから左に曲がって矢竹の生け垣沿いに五十メートル
ほど行くと、清みきった速い流れの小川があった。石橋を渡ると川に沿った小径があり、
彼女の家は石橋の斜向かいにあった。渋い色に変化した羽目板張りの瀟洒な木造二階建て
で、京都の町屋風のまさに「お茶のお師匠さん」の住む家に相応しいものに見えた。格子
戸を開けると三和土が真っ直ぐ裏まで伸びていた。「お茶を点ててあげましょう」とお母
さんは言って、茶室に私達を誘った。私は靴下に穴があいていないか、学生服が汚れてい
ないか気にしながら観念して正座した。私はお祖母さんもお母さんも、全く作法も知らな
い男の子を捕まえて、戸惑う姿を密かに観察してからかっているのではないかとも考えな
いでもなかった。しかし家での会話の乏しい男同士の時間とは違い、この何とも柔らかい
雰囲気は私にとって実に心地よかった。彼女も時々退屈すると私の家に来て時間を過ごす
ことあったから、姉弟のない寂しさを感じていたに違いない。

 しかし高校を卒業すると私達はそれぞれの違う道を歩みだした。彼女は茶道という四百
年もの歴史がある日本の伝統の形式美・様式美の世界で生き、一方私はそれらの芸道が素
晴らしいことを理解しながらも約束事の中での息苦しさに耐えられない性癖ゆえ、西洋の
理屈の世界に憧れ進んで行った。その間の私達の交流は途絶えた。そして彼女は故郷で伝
統を守り続けてそれを完成させた。一方私は一所に根を下ろすことなくいまだに放浪に明
け暮れている。
 願わくば早春の沈丁花の微かな匂いが漂う松琴亭あたりで、木村多江のような切れ長の
目をした和服の似合う彼女のお点前を戴きたいと思ったのは私だけではなく、梁山泊の連
中も同じであったろう。

2014年/4月/12日 (斜光19号)

3

 

熊井浩二君のこと 

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月12日(土)19時57分41秒
編集済
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               熊井浩二君のこと 





 私が熊井君を初めて知ったのは、同じクラスになった高校一年生のときであった。これ
でも同級生かと思ったほど私と正反対の、背が高くがっちりした骨太のいい体をしていた。
そして寡黙で感情を現すことなく無愛想に見えるほど、真っ正面から物事を見つめている
様子は、鶴田浩二や高倉健の演ずる主人公のように、世間の不条理や人情の板挟みにじっ
と黙して耐え忍んでいる「古武士」のように私には見えた。
 その当時、私達はめったに会話は交すことはあまりなかったが、人を騙したり蔑んだり
妬んだりしない、素直で誠実な人柄だと私にもやがて判った。その後学生時代はあまり深
い付き合いはなかったが、彼が勤め先の株式会社ナブコの山形工場から横須賀に戻ってき
てからは、小さなグループの飲み会や、蔵王や八甲田や熊野古道旅行などを一緒に楽しん
だものだ。
 一見、堅物で正義感や侠気だけの唐変木で、文学などと言った軟弱なものに興味を示
さないように見えるのだが、どうしてどうして彼の「斜光」への作品を読めば、なんと周
りの人に優しく思いやりに満ちた、しかもユーモアやペーソスの情感溢れる作品ばかりで
ある。また「斜光」仲間の語らいの場として出発した掲示板「落書き帳」にも、開設して
間もなく機智に富んだシリーズもの「小話の箱」を三年に渡って楽しませてもくれた。
 その外見と内面における印象の柔と剛のギャップは人を驚かすとともに、彼の人間とし
ての高潔さや幅の広い見識をもつ人格をあらためて認めさせるにじゅうぶんである。
 また現代の打算と羊頭狗肉と朝三暮四に満ちた世の中で、もう古いと言われそうな鶴田
浩二や高倉健のように筋の通った見識、侠気(男気)は、私が「斜光」の編集委員を辞す
る時、中に立って取り成そうと試みてくれたただ一人の友情に厚い人で、私にとって恩人
なのだ。 それにしても誠実で公正な考えを具えた人物が一人いなくなったのは哀しいこ
とである。

2014年/4月/11日 (斜光19号)

1

 

高柳増男君の死を悼む

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月12日(土)19時50分26秒
編集済
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          高柳増男君の死を悼む 




 一昨年「喉の癌」を患って以来入退院を繰り返していた高柳君が今年五月初旬に亡くな
った。私も週に数回ほど見舞いに行ったが、彼は声が出なくなってからは私達が冗談やら、
茶化しやらを勝手にぶつけるのを大人しく、フンフンと聞くばかりになっていた。しかし
息を引取る数日前までは意識も目の輝きもいつもと変らず、本当にシリアスな状態なのか
と疑いたい程精神的には安定した状態で、彼は病気を治して仕事に戻ることを本気で考え
ていた。それでも苦痛などを私達に一度も訴えることがなかったけれど、肉体的にはダメ
ージが蓄積していたのだろう、私達にとっては突然といいたいほどの容態の急変があり、
長時間苦しむことも無く、あっという間にあの世に行ってしまった。

 思えば彼との出会いは四十五年前、高校一年生から始まった。真冬、彼の家の納屋の二
階の部屋に泊めさせられて寒さに凍えたり、朝には家の前を流れる川で顔を洗ったりした
ことが数度あった。そして時々は私の家に一週間ほど居着き、そこから高校へ通いもして
いた。だから、彼の身体的障害などはすっかり忘れさり、友情などといった美辞麗句に収
まらない付き合いで、時には思わずそのことをからかったりして彼の自尊心を傷つけるこ
とも度々あったと今私は反省している。

 彼の両手の指と足の指をなくした経緯を本人から聞いたのはいつだったか思い出せな
い。それはまだ戦時中のこと、縁側に寝せられている赤ん坊の彼の足先で敵機の落とした
焼夷弾が炸裂し彼の足指を吹っ飛ばしていった。そしてまたまた不幸なことに、数年後成
長した彼は家の畑のなかから不発の焼夷弾を見つけ、遊んでいるうちに暴発してこんどは
手の指を粉みじんに打ち砕いたという。

 振り返ってみるとアメリカ軍の本土空爆は終戦間際のものだと思っていたが、 すでに
昭和17年4月19日に中京・阪神地区に大規模な焼夷弾による空爆が始まっていた。そ
して終戦間際の昭和二十年になると制空権を奪われた日本全土の地方都市もその例に漏れ
ずいたるところで焼夷弾の雨が降っていた。

 佐賀県への空爆は昭和20年4月18日鳥栖が最初で、それから終戦まで10回続いた。
 第1回  4月18日 午前10:00~ 鳥栖
 第2回  7月16日 白昼
 第3回  7月21日

 第4回  7月28日 白昼
 第5回  8月1日 午後1:00~
 第6回  8月5日 午後11:30~6日午前1:00  東川副、諸富、川副、久保田
 第7回  8月9日
 第8回  8月11日 午前中    鳥栖
 第9回  8月12日
 第10回 8月14日
 昭和20年8月5日第6回の最大規模の空爆被害状況は
   死者 38名   被災者  2000人  被災住戸  500戸
   被災地 東川副 諸富 川副 久保田 等    (佐賀県警察史の資料による)

  また、焼夷弾の構造および着弾におけるその作動状況は次の通りである。
E46収束焼夷弾は、B29より投下され数秒経つと鉄バンドが解かれ、M69焼夷弾が
空中にばらまかれる。すると麻布製のリボン(約1メートル)が飛び出しM69が正確に
落下するよう揺れを防止する。
 屋根を突き破ったり着地すると5秒以内にまずTNT爆薬が炸裂、その中のマグネシュ
ームによりナパームに着火する。その燃焼する力で鋼鉄製の筒を吹っ飛ばし30メートル
四方に燃焼したナパームをまき散らす。

上記の資料によるり高柳増男氏が被災した状況を考察すると
  1. 高柳氏の被災したと思われるものは昼間の空爆で4月18日鳥栖、8月5日の深夜、
   8月11日鳥栖を除いた日のどれかと思われる。
 2. 彼の年齢と事件の起きた状況が違うという指摘がなされたが、「おくるみにくるま
   った」という友人の記憶による思いこみをしたことによるもので、乳児ではなくじ
   つは三歳になる前の高柳氏が縁側で寝せられていたものと推察される。
 3. 高柳氏がどうしてナパームの火による被災でなく外傷を受けたかは、ナパームに着
   火せず単に鋼鉄製の筒を吹っ飛ばしただけの不発弾だったと考えることもできる。
 4. この件に関して(焼夷弾による被災)はT氏およびK氏も聞いたと証言している。

 だが、ここで新たな証言をI氏よりもたらされたことが問題となる。被災説を信ずる私
たちには想像すらできなかったもので、それは出生にまつわる物語であったとI氏は言う。
  このことは「被災説」と「出生説」の両方とも彼が自らが告白したということが事実
であるとすれば、どちらかが真実でどちらかが虚偽であるか、或るいは両方とも彼の創作
によるものとも考えられる可能性が生じてくる。いま思い起こすとそのように彼は謎の多
い男であり、真実はなんであるか語らずに逝ってしまい、真相は闇の中である。

 しかし、兎も角彼はその障害にたいして心無い言葉や世間の目に臆することなく果敢に
立ち向かい、私達仲間のうちで一番の音痴だった彼が音楽業界で活躍したのは以外であり、
あまりに身近な付き合いだった故、彼の素晴らしい業績に鈍感だったことを葬儀の時に私
は感じたのだった。
 棺に納めた彼の思い出の品の中に45年前のハイキング仲間の写真があった。私の家を根
城にして屯(たむろ)していた「梁山泊」の仲間からまた一人旅立ってしまった。その写
真のメンバーのうち既に三人が欠けている。次に逝くのは俺だともう既に手を挙げている
御仁もいて補充も期待できるようだから、そのときまで「願わくばあの世で先に逝った徳
重雅啓君と石田信彦君とメンバー不足ではあるが三人で君の好きな麻雀でも興じていてく
れ」と祈っている。


斜光 8号 2003年7月14日
 

徳さんの夢

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月12日(土)19時49分15秒
編集済
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               徳さんの夢 





 つい二ヶ月程前、「斜光」の編集会議で徳重雅啓君の消息が話題になったばかりで、彼
が入院しているらしいという報告があった。以前も何処かを手術するといって病院のやっ
かいになっていた事を知っていたので、我々はさほどシリアスな状態ではないと考えて居
た。今回の創刊号には是非寄稿して貰いたいと期待していた矢先の突然の訃報であった。
 彼との付き合いは、私が鹿島から佐賀へ転校してきた小学校六年の時からである。私の
家から五十メートルも離れていない立派な屋敷に住んでいて、町内の子供会の旅行にいた
るまでいつも側に居るという腐れ縁のはじまりだった。その頃私に反し彼はがっしりした
体格で、かれも福岡の方から転校してきたらしく我々には妙に聞こえる博多弁で理屈をい
う生意気そうな風貌であった。風呂敷を纏いチャンバラごっこをして遊ぶ時、その頃流行
していた三銃士のダルタニヤンの役を誰がやるかでいつももめていた。
 また、彼の家には当時まだ珍しかったハイファイセットがあって、時々彼の父親の目を
盗んではクラッシックの音楽を聴かして貰っていた。私はその頃ハイフェッツ演奏でメン
デルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調のSP盤一枚しか持っていなかったが、彼の家
には既に、SPより繊細でいかにも音のよさそうな色とりどりのジャケットのLPが壁に
沢山飾られていた。
 五年程前私は希望の進路を記録した高校の資料を覗いた時、彼はW大の文学部を目指す
と書いているのを見つけた。確かに彼はその当時太宰治に気触(かぶ)れていて、休日の
日などは久留米がすりの着流しで、「かすとり雑誌」に関係しているような退廃的でシニ
カルな雰囲気を醸しだしていた。そしてまた、不思議に男友達にはつれなく女性には妙に
親切で、まだ子供っぽかった私達に男女の隠微な世界の存在を教えてくれたような気がし
た。私は彼がW大や本郷界隈の戦禍を免れて今もたまに見かける、「芳兵衛物語」に出て
くるような木造二階建ての借家を舞台に登場する文学青年を夢みていたような気がしてな
らない。私は今まで彼の夢をはっきりと聞いたことはないが、彼は、はたしてそれが叶え
られただろうか?たとえ現実はそうでなかったとしても私はそう信じたい。
 ついに、梁山泊のメンバーから五十四才の若さの一人の魅力ある人物が去って行った。
願わくばあの世で我々のために梁山泊の準備を怠らないように程ほどの酒量に注意し、私
達に妙に聞こえた博多弁、いや今は大阪に就職して以来の妙な大阪弁で天国の人々を煙に
まいて私達が行くまで愉快に過ごして待っていて欲しいと願う。
 

不器用に、ひたむきに

 投稿者:編集部  投稿日:2014年 4月12日(土)19時45分43秒
編集済
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    古賀幸雄回想録

    『不器用に、ひたむきに』 あとがき  1997




 平成八年八月末、父は突然他界してしまった。享年八十四歳であった。
その年の正月、父は回想録を書いたので送ると言って来た。私は、新聞以外の活字を追っ
ている姿などめったに見せたことのない父が、この回想録をいっきに書き上げたことに驚
くとともに、その動機を不思議に思った。ある時母が「私の祖父は辞世の句を墓に彫りあ
の世に行った」と自慢げにその教養を話すのを聞いて、父は「自分にだってできるさ」と
言って書き出したのだと、母は冗談めいて言ったことを思いだした。
 私は父が十七歳のとき船が遭難し、もはやこれまでといった状況のなかで命を取りとめ
た島を訪れたいという願いを、以前に聞いたことがあった。数年前、父自身もそのもくろ
みを実行に移そうというやさき、あいにく胃のほとんどを切り取るという手術をし、「も
うこの歳では無理だな」と断念していたようだった。
 私はこの回想録を読んで、いままで父がまだ充分元気であったため、子として何もして
あげられなかった思いもあったので、その旅行を実現させようと決心した。まずその見島
なるものもどこにあるのか、交通手段やその他、年寄りの旅に無理は生じないかなどから
調べる必要があった。そこでさっそくある旅行会社に調査と旅行のスケジュールを依頼す
ることにした。私は両親の意向を伺い、了解を得たので、兄に相談の上「兄弟夫婦からの
招待旅行」とすることを決めた。
 それは平成八年の四月初旬、両親と兄夫婦四人は佐賀から、私たち夫婦は夜行列車「出
雲一号」を乗り継いで東京から東萩駅に向かった。その島は山口県の萩の港から四十五㌔
ほど離れた、韓国との間に位置する面積七、八㌔、昔の萩藩流罪の島であった。二時間の
連絡船の旅は、慣れない私達にとっては非常に苦痛で、春とは言え日本海の荒波は容赦な
く百数十㌧の船を翻弄した。
 やっとの思いで宿に着くと、さっそく私たちは女将に、木村亀松さんという恩人の消息
を尋ねた。その家は、この島にある二つの港のうち数㌔離れたもう一つの宇津港であった。
私達は電話で、若い女性の声の相手に真意が伝わったかどうか覚束ないまま、明日の訪問
を約束した。その夜、私達は地図を見ながら、遭難現場はこの赤瀬という岩場ではないか
とか、木村さんに助けられて山を下りた道筋などを求め思いを巡らせた。
 次の日、私達は宿の車で木村家を訪ねた。昨日の電話の女性と思われる人は、私達六人
を見てちょっとひるんだ様子であった。そこには、亀松さんの甥の木村繁男さんが待って
いて、父の話す六十数年前の出来事を聞いてくれた。亀松さんは既にこの世になく、その
子供さんも早世し、いまは孫の代ということで、そのときのことを知る人は一人もいなか
った。私達は鴨居の上の木村亀松さんの遺影に手を合わせ、また海の見える丘の墓に線香
を上げた。
 木村繁男さんは「あなた達が憶測した遭難場所は人家に近く、また切り立った岩場もた
いしたことないので違うのではないか。多分この島の裏側の長谷という韓国に面した場所
と思われます」と言って、車がやっと通ることのできる山道を案内してくれた。
 道の突き当たりはちょっとした広場になっていて、荒れ狂う玄界灘が一望でき、足元か
ら百㍍もあろうかと思われる断崖が垂直に切り立っていた。この島は日本の本土に向かっ
ては、なだらかな優しい丘陵地帯で水田や畑も見られるが、韓国に向かっては、人を寄せ
付けない断崖絶壁であった。父の記憶による砂浜は満ち潮のせいか見ることができなかっ
たが、十数㍍もあろうかという立岩がところどころに海面から鋭く突き出ていた。よくも
この断崖を大雪の日に登れたものだと不思議に思われたが、右手の少し突き出た立岩の切
り込んだ襞の部分に、やっと人がはい上がれるほどの勾配の斜面が続いているのが認めら
れた。父は「多分あの切れ目から登ったのだろう」と言って遠い過去の記憶を読み取ろう
としているようだった。そしてきっぱりとした声で「もうよい」と言って車に乗った。私
はこの一言で父の思いが完結したことを悟った。
私達は再び荒波に悩ませられてその島を後にした。萩市内や秋吉台などを回っている中で、
「お父さんはこのごろ歩くのが遅くなったね」「もう歳だからそういうものだろう」など
と噂をしていた。私はそのときすでに父の体に予兆があったのかも知れないと後で気づい
たものだった。
 この小旅行も父の喜びとともに終わり、両親と兄夫婦は佐賀へ、私達は東京行きの新幹
線で同時刻のプラットホームでの別れであった。思い出せば、私と兄が入れ替わっている
とはいえ、四十数年前の鹿島駅での別れと酷似していた。一つ違っていることは、貧しく
哀しい昔の状況と違い、楽しく満ち足りた別れであった。私はこのとき、この回想録の出
版を父と約束したのであるが、心のうちで急がないと間に合わないかもしれないとの予感
めいたものはあった。まさか四ヶ月後という早さで現実になるとは思いもしなかったし,
私が父の姿を見たのはこれが最後となってしまった。
 午後四時ころ趣味にしている農作業を終え、風呂に入って髭を剃り、身だしなみを整え
てテレビの前にいた父が妙なうなり声を出しているのを、母は裏の土間で聞いた。急いで
居間に行ってみると、すでに意識はなく数十分で亡くなったという。通夜の日、主治医の
有島先生から「不整脈が認められたので、ニトログリセリンを持たせていたのですが」と
いう言葉を聞いて私達は驚いた。父はここ数年の間、私達家族にそのことを一言も話さず、
いずれ来る死を黙って整えていたようである。
 そして、本を作ることに関しては全く無知な私達家族が、約束のこの回想録を出版する
ことが出来たのは、校正と監修は北 勲(いさお)氏、装丁とイラストは近藤 勝(まさ
る)氏、印刷と製本は石井 順昭(よりあき)氏という、私の高校時代の同窓生である各
氏の多大なる尽力によるものである。
 ここに、「不器用にしかもひたむきに」生き抜いたこの八十四年の激動の時代を、いつ
も背筋を伸ばし、愚痴を言わず、忍耐強く、しかも老いてなお身だしなみを整えていた父
に、私達は立派に完成したこの回想録を添えて、冥福を祈りたい。




                    『不器用に、ひたむききに』より
          

                     長い旅路の果て、
               若き二人の思い出の故郷、
                    大谷の地に帰り着いた。

 

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